社報shinko〜親交〜 2007年08月号

創業80周年を迎えて 創業のころと戦後の復興の思い出(その3)「第二の創業時代に突入」

会長 古市 實

昭和23年末頃からホモミクサーの開発に取り組んだ。自宅の2階で様々な打ち合わせ、まずモデルとなる米国製の小型機を父の友人 山田氏から一週間貸してもらってスケッチした。部品数やモータなど(電圧・馬力・型式等)、初めて見た外国製品である。めっきを担当していた高濱禎さんが泉尾高等工業学校出身だったので、図面は得意だった。父 修次は整流子モータの入手に奔走した。戦後なので作ってもらえるところもなく、在庫の有無を調べるにも電話帳で探さなければならない。電話をかけても不通のところが多く、連日歩き続けていた。私は東洋エメリーの営業を一人でやり、女子事務員2人を雇って、資材の調達から資金繰りなど、多忙を極めた。市内の各所では、いまだシャベルとモッコで焼け跡の片付けが続いていた。

昭和24年の2月、当社の近くで小型モータを作っている藤見久春さんの会社を見つけたとの朗報が父より入った。現在もお世話になっている冨士電気精機の前代社長である。一見気難しい方のようにお見受けしたが、父と技術者同志で意気投合し、毎日のように往来し合って、相談にのってくれた。結局、試作に使ったのが映写機に使っていた1/8馬力、卓上ドリル用1/4馬力のモータ等でスタートしたのであった。同年5月、伯父 古市勉の経営していた神津製作所 放出工場(戦時中疎開していた旧工作機メーカーの工場。本社伊丹市=現三田市)を買ってもえないかという話があり、有沢重康工場長(現 大光精機社長の祖父)以下従業員12名と繊維機械(ワインダー)組み立て並びに付属品の製作込みで東洋エメリーフィレットが買収したのである。幸いホモミクサーの製作を想定していたので、敷地1150m2、建物630m2の機械工場(フライス盤・旋盤・研削盤など各種機械約30台)は、当時の業務拡大には大変有効であった。また有能な従業員も共に当社に来てもらえたのである。(元取締役だった飯島明さんも工員の一人であった。)

当時は一般的に不景気であり、多くの会社では給料の支払い遅延が続出しており、産業別労働組合の結成が盛んで、至るところでストライキやデモの多発する時代であった。この年の6月には淀川工場に大容量のめっき槽が完成し、産業用工業クロムめっきの営業を開始し、神鋼や紡績各社のめっき加工を受注した。

同年9月、念願のホモミクサー第一号機が完成し、稲畑産業の試験室に『T.E.Fホモミクサー』として納入したのである。同社が油性顔料「アリダイ」の総代理店であったため、その販売には必需のミクサーであったからである。当時京都、和歌山などに中小捺染工場が多数あり、生産に追われる日々であった。同年12月、放出工場を本社として、淀川工場はめっき部、放出工場は化工機専門工場とし、東洋エメリーフィレット(現 トクシュ技研)から分離し、別会社『特殊機化工業株式会社(現 プライミクス株式会社)』をスタートしたのである。資金面は当分の間、東洋エメリーで面倒を見ることとなり、第二の創業時代の幕開けとなった。昭和25年にはホモミクサーの販売開始、東京事務所開設、朝鮮動乱など内外共に特需景気が起こり、当社も繊維業界から化粧品、化学、医薬品業界へと拡大を続けられる基盤となったのである。(10月号へつづく)


当時の放出工場(現エフ・エム・アイ本社/工場)

放出工場でホモミクサーの回転テスト
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