社報shinko〜親交〜 2010年07月号

取締役退任にあたって

取締役会最高顧問 高村 仁一

早いもので1969年にプライミクス(旧社名 特殊機化工業株式会社)に入社して41年5カ月の歳月が過ぎました。長いような短いような複雑な気持ちです。そのうち取締役に選任され17年間は未熟ながら経営陣の一翼を担いましたが、どのくらい貢献できたか自問しています。思い返しますと入社したときの初任給は37,000円、翌年日本万博が大阪で開催され日本経済成長の起爆剤となり、まさに今当社も進出している中国のような高度成長の時代でした。給与も5年間で3倍強になっていたのを今でも覚えています。

入社から携わってきた業務の2/3強は営業で、1/3は総務、財務と生産、サービスでした。また、勤務地はほとんどが本社(大阪)で2回東京支社に転勤をしました。各業務、職場では様々なことを経験し、多くの印象的な出来事が走馬灯のように浮かんできます。営業では30歳の頃、始めての海外出張時、台湾の代理店指導で30日間ほど全島を車で営業活動をした時、ちょうど日本と中国の国交回復の時期とぶつかり帰国の飛行機が飛ばなくなるとの情報で、急遽3日間ほど早めに切り上げ帰国したこと、始めての海外であったため、非常に心細く不安だったのを今でもよく覚えています。営業の日常活動では用途開発をテーマにいろいろな業界、用途にアプローチしたこと、おかげで日本国内では仕事で訪問できなかったのは鹿児島県の1県だけでした。
総務関係では全社としては最後の慰安旅行になった沖縄を企画したことが印象に残っています、このとき平行して検討したのがハワイ旅行でした、全社員で行けなかったのが今でも残念に思います。生産、サービスを担当したのも畑違いの部門と当初考えていただけに新鮮な経験でした。情報システムを担当した時は基幹システムのプロジェクトを途中で引き継ぎ本当に悪戦苦闘しながら立ち上げた事も印象に残る事柄の一つでした。
現在、プライミクス上海の立ち上げと運営に本社側として参画していること、特に文化の違う中国の人達と共に仕事をするという貴重な体験をさせてもらっていることや、本社経理面ではこの10年、各金融機関の支援で大きな問題もなく財務を運営できていることなど……数え上げれば本当に先輩のみなさんや社員のみなさん、ステークホルダーのみなさんに支えられた41年間だったとつくづく思います。

私の信条の1つとして、会社を終える時に私自身も含め全社員が「いい会社に勤めた」と言える会社になるよう微力ではありますが貢献したい、との思いが非常に強かったです。私自身はみなさんのおかげでそう感じることができていることに感謝しています。今後引き続き顧問として勤務しますが、更に当社が発展し社会に貢献できる良い会社になるようお互いに頑張りましょう。最後に、2年半前に始めて大きな病気になり半年間闘病生活をしたときの会長、社長を始め会社のみなさんのあたたかい励ましはこれからも忘れられない事柄で、感謝の気持ちでいっぱいです。謝謝。

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